2015年06月18日

セルビア軍装基本のキ!追補(一)外国人義勇兵の軍装

以前UPしたセルビア軍装基本のキ!ですが、いくつか抜けている箇所がありましたので、これから追加の説明を行ってゆきたいと思います。

■追補(一)外国人義勇兵の軍装

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・ロシア人義勇兵

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ボスニア紛争では、ロシア人を中心とした旧ソ連出身者によるロシア義勇兵団(РДО)が活動していました。
РДОについては以前ミリブロでも簡単に触れましたので、覚えておいでの方もいらっしゃるかと存じます。

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一部にはVSR迷彩、KKO迷彩、時にはKLMK迷彩など、自国から持ち込んだ旧ソ連/ロシア軍の戦闘服を着用する義勇コサックもいました。

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現地調達されたユーゴ/スルプスカ製戦闘服にマブタ戦闘帽やパパーハなどの自国の帽子や小物を組み合わせる例もしばしば確認されています。



彼らの写真集や記録映像を眺めてみると、現在80年代ソ連~90年代ロシア軍装を楽しんでいるマニアの皆さんがあまり費用をかけず、気軽にスルプスカ軍装を楽しむにはうってつけの軍装例がいくつか見つかるはずです。
各自、収集活動の困難さを乗り越える鍵を探してみてください。

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РДОそのものは1993年後半~1994年初め頃に解散しましたが、その後もボスニアに残留し、個人レベルでスラブ同胞のため戦い続けたコサック達も少なくなかったようです。


・ギリシャ人義勇兵

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セルビア同様正教徒が多く、ロシアよりずっと地理的に近いバルカン諸国の一員、ギリシャ。
ギリシャ人義勇兵が1991~1999年に渡ったユーゴ内戦のあらゆる局面で姿を現すのはごく自然な事と言えるでしょう。

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ギリシャ正教を信仰する大勢の男達がキリスト教世界の同胞を守るため行動に出ました。
所謂「ギリシャ義勇親衛隊(ГДГ)」です。

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多くのギリシャ義勇親衛隊員は自国のギリシャリザード迷彩を身にまとう一方で、野戦装備類は現地調達したものを混用しました。

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戦場においては粘り強く戦い、現地のセルビア人達ともよく連携し固い団結を誇ったとされています。



ロシア人とは対照的に、ギリシャ人義勇兵は基本的にセルビア人達に混じって任務に当たり、1994年戦争終盤まで独立したギリシャ人部隊を結成することはありませんでした。



Balkan Wars Living History Group 著

セルビやんこと林鳥巣 編訳 


■ちなみに

今年2015年11月に開催予定のヒストリカルゲームボスニア199X、参加者募集中です。
お問い合わせ・参加のお申込は以下メールアドレスまで。
yugowar199xアットマークgmail.com ※アットマークを@に変えて送信お願いします。
タイトルは「ボスニア199X:参加希望」とお書きください。  

Posted by セルビやん at 18:21Comments(0)外国人義勇兵セルビア側被服個人装備

2015年04月26日

ギリシャ義勇親衛隊(一) ~ギリシャ政府とユーゴ内戦~

1994年当時、ギリシャはセルビアの立場を支持しボスニア・ヘルツェゴヴィナにおけるスルプスカ共和国軍前進基地に対するNATO軍の空爆に一貫して反対した唯一の欧州連合加盟国であった。

94年のはじめ、ギリシャは欧州議会でNATOのボスニア空爆に反対票を投じた。
またイオニア海に位置するプレゼヴァNATO空軍基地使用を認めず、国際連合保護軍へのギリシャ軍参加を拒否した。




アムステルダム大学のC. ウィべス教授によればギリシャの諜報機関ギリシャ国家情報庁(EYP)は1990年代半ばボスニアにおけるNATOの作戦を組織的にボイコットするばかりか、スルプスカ共和国軍への支援を行っていたという。


ウィべス教授はオランダ政府のために作成した報告書「ボスニアにおける諜報活動及び戦争 1992-1995」でEYPがNATOの作戦計画に関わる機密情報(連合軍情報部がどのような情報をどの程度入手したか)をスルプスカ共和国指導部、特にラトコ・ムラディッチ将軍本人に繰り返し漏洩したと主張する。また、そのため95年夏NATO加盟諸国はギリシャ当局と作戦計画の共有を停止したとしている。



(二)に続く


■ちなみに

今年2015年11月に開催予定のヒストリカルゲームボスニア199X、参加者募集中です。
お問い合わせ・参加のお申込はリンク先メールアドレスまで。
お待ちしております!

【ヤフオク!】ギリシャ軍リザードカモ

  

Posted by セルビやん at 15:23Comments(0)セルビア側

2013年09月06日

ユーゴ内戦におけるロシア人義勇兵について(二)

(二)コソボの戦い



1999年のNATOによる空爆を受け、多数のロシア人が義勇兵として駆けつけた。
当時コソボにはおよそ200名ものロシア人義勇兵がおり、実にその半数がウクライナ出身だった。
義勇兵達は10~15名の小部隊に分かれ、ラスカ、デチャニ、またコソボ解放軍の聖域となっていたアルバニアとの国境地帯などコソボ各地に展開した。


コソボ紛争では2人のロシア人義勇兵が戦死している。 また、2001年8月のマケドニア紛争では8人のロシア人義勇兵がアルバニア人分離主義者との戦闘に参加した。




2001年のマケドニア紛争を含む広義のユーゴスラビア紛争において、ロシア、ブルガリア、ギリシャ、ルーマニアその他の国から来た計529~614名の義勇兵達がセルビア人そして正教信者のために戦い、40名が戦死したとされる。

これらの義勇兵達は個々の能力や必要に応じて適所に配置されたものの、部隊間の移籍は個人の自由であった上にいつ帰国しても、いつ部隊に復帰しても自由であった。

http://www.youtube.com/user/stjagvideo


(おわりに)

以上はスルプスカ共和国義勇兵連合ウェブサイトよりアレクサンドル・クラフチェンコ氏の解説を抜粋、要訳したものです。
写真資料も添付できればよかったのですが、時間の関係で動画リンク中心の簡易的なアップとなりました。動画を眺めているだけでも、ロシア人義勇兵たちの思い思いの服装は軍装趣味の上でも実に興味深い特徴に溢れています。

ユーゴ軍の各種戦闘服に交じってKLMKなどのロシア軍服やデンビルじみたコサック服、 襟元から覗くいかにもロシアを思わせるチェリニャーシカ(縞シャツ)など・・・

ロシアやウクライナほか旧ソ連諸国の軍装趣味をもともと楽しんでおられる皆さん、あるいは今のところ特にそれといったジャンルを持たない皆さんが、セルビア軍装趣味を気軽に、ちょっとつまみ食いしてみたい・・・という時、こうした外国人義勇兵たちの軍装例を真似てみるのも面白いかもしれません。

なんたって、上がカモシャツで下はジーンズなんてラフな恰好もありなら、必ずしもユーゴ製AKであるツァスタバM70でなければいけない!ということもないのですから・・・注意深く動画を観察してゆくと、果たしてどうやって持ち込んだのか?中にはAK74を撃っている映像やギリシャ製と思しきH&K G3を持っているロシア義勇兵の姿までもが見つかります。

今後もこのテーマについては更に細かく取り上げてゆくつもりです。

またこの文章ではロシア人以外の義勇兵についてもほんの少しだけ触れていますが、実際には(さすがにロシア人ほどではないにせよ)文中の表現から受ける印象よりも遥かに多い人数の外国人義勇兵が参戦していたのではないかと考えています。
特にギリシャ人義勇兵は、以前私が見たバス移動の映像一つとっても優に数十人が参戦していたことが確認できました。
これについても後日資料の翻訳が終わり次第別項を設けて取り上げたいと思います。
  

Posted by セルビやん at 21:41Comments(0)外国人義勇兵セルビア側

2013年09月06日

ユーゴ内戦におけるロシア人義勇兵について(一)



(一)ボスニア・ヘルツェゴビナ

最初に戦火のユーゴを訪れ、ロシア人義勇兵の組織的誘致を主導したのはカザフスタン出身の二人のコサックであった。彼らはセルビア民兵組織ベリ・オルロヴィ(=英名ホワイトイーグルス、別名アベンジャーズ)と密接な協力関係を構築した。


まず50人のコサックが到着した。ドン、サラトフ、モスクワ・・・一部の一匹狼を除けば、彼らは概ね各都市のコサック団体を代表して派遣された兵士達だった。部隊は3人のアタマン(※頭領)の元、2ヶ月の間ヴィシェグラードにおいて戦闘に従事した。

この3人のアタマンの一人、ヴォルゴドンスク出身のコサック大佐ゲンナジー・コトフは1993年2月に戦死しており、ロシア義勇兵運動史においては最も英雄的なアタマンであると位置づけられている。



1993年2月下旬、ヴィシェグラードに新たなロシア人義勇兵達が到着した。第2次ロシア義勇兵団【ツァーリの狼】である。彼らの多くはコサックではなかった。1993年3月10日、第1義勇兵団の生き残りと第2義勇兵団は合併し、総勢35名の合同兵団を結成した。


兵団は合併したものの、基本的にコサック兵のみは独自のアタマンが指揮した。この集団は1993年5月まで活動し、ヴィシェグラード郊外のザグラヴァク丘陵地帯における二度の攻勢に参加した。

1993年の夏頃には、この合同兵団は既に統一した指揮を失い崩壊状態にあった。多くの義勇兵達は1~2人ずつに別れてセルビア人の民兵部隊に混じって活動した。時折これらのロシア人義勇兵達は再度寄り集まって5人前後の小部隊を結成した。これらの分隊はオズレンスキー隊などと呼ばれた。

※この「オズレンスキー」はボスニア中央部ゼニツァ=ドボイ県の山オズレンに因むと思われるが、正確な由来は不明

1993年10月ついに第2義勇兵団は最終的な解散を迎えたが、大部分の残存兵は(当時スルプスカ共和国軍の野戦陣地となっていた)サラエヴォ郊外のユダヤ人墓地で再結集を計った。1993年11月、アレクサンドル・シクラボフを指揮官として第3義勇兵団(スルプスカ共和国軍サラエヴォ第1軍団第3歩兵大隊奇襲小隊)が結成された。この部隊は多くの作戦に参加し、其の内の幾つかでは成功を収めた。




――その代表例が、1993年10月に敵武器工場を奪取した「ゴラジュデの勝利」である。第3義勇兵団はその活動期間中60~80名とボスニア内戦におけるロシア人義勇兵組織としては最大の兵力を有したが、1994年に指揮官A.シクラボフの戦死を以て遂に解散した。



・・・90年代のコンバットマガジンやアームズマガジン、GUN誌に取材記事が掲載された在日韓国人義勇兵の片桐克彦氏(仮名)もセルビア急進党経由でパンテリ旅団に入隊しサラエボのユダヤ人墓地で塹壕の防衛に当たったと語っているが、この時彼が目撃した「(非熟練兵の自分とは違って)練度が高く、偵察や攻撃的な作戦に参加して死者も出していたロシア人やルーマニア人から成る小隊」とは恐らくこの第3義勇兵団を指すものと思われる。

・・・1994年夏、解散した第3義勇兵団の残存兵達はふたたび10~15名から成る小集団に分散し、1995年11月の終戦までボスニア各地で戦い抜いた。

1995年秋、中央ボスニアで激しい戦闘が始まった。デイトン合意により終結が目前となったこの戦争を勝利で終わらせるため、スルプスカ共和国軍が最後の大攻勢に出たのだ。敵主力撃滅の戦略目標を達成するため、ニシュ高地に兵力が集められた。




この攻勢において重要な役割を果たしたのがスルジャン・クネジェヴィチ率いる特別部隊「べリ・ブコヴィ(白狼隊)」である。第3義勇兵団の残存兵をはじめ外国人義勇兵は殆ど全てがこの部隊に参加した。白狼隊はロシア人を糾合した部隊として戦争終盤で最も有名な部隊となった。




部隊の司令部はサラエボから20km離れた、ヤホリナスキーセンターに設置された。かつてサラエボ五輪会場であった施設である。ここでは50~80人のロシア人、およそ10人のブルガリア人、ギリシャ人、ルーマニア人その他の外国人義勇兵が作戦に従事していた。




1995年秋、少数(7~10名)のロシア人義勇兵達が白狼隊から脱退し、ヴラセニツァに移って特別部隊「ドリナの狼」遊撃隊に入隊し、終戦まで残留していたという。そこではまた10名のギリシャ人が「ギリシャ義勇親衛隊」と名乗って活動していた。

(二)へ続く
  

Posted by セルビやん at 21:09Comments(0)外国人義勇兵セルビア側