スポンサーサイト


上記の広告は1ヶ月以上記事の更新がないブログに表示されます。
新しい記事を書くことで、こちらの広告の表示を消すことができます。  
Posted by ミリタリーブログ at

2015年05月03日

セルビア軍装基本のキ!(四)USウッドランド迷彩




4.USウッドランド迷彩

wl


アメリカ軍のM81ウッドランド迷彩もコピー品が多数使用されており、これも「着用して差し支えない」という程度にはお奨めできます。

ウッドランド迷彩は、将校と兵士とを問わずVRS軍人にとってはちょっとしたステータスとなるアイテムでした。
着用者は内戦により崩壊状態にあったユーゴスラビア経済下ですら貴重な輸入品を購入できるお金持ちか、あるいは最前線で敵を殺害した勇者として見られたのです!




スルプスカ共和国やクロアチアで製造されたコピー品よりも、本物の米国製ウッドランドが珍重されたのは言うまでもありません。
一部のVRS軍人は米国をはじめ諸外国に居住する家族や親戚から仕送りとしてこの「お宝」を受け取り、あるいは少々懐を暖めたくなった前所有者から購入しました。

またこれは余談ですが、迷彩だけではなくオリーブドラブ色のM65ジャケットもまた着用例が確認されています。
中には米軍の徽章がついたままになっているものも見受けられました。
内戦に陥る前も後も、ユーゴスラビアは米国など西側の映画を自由に見られる国家でした。
着用者の中には、かつて平和だった時代に映画館で観た「ランボー」や「タクシードライバー」の主人公になりきる者もいたかもしれません。

Balkan Wars Living History Group著
セルビやんこと林鳥巣訳




■ちなみに

今年2015年11月に開催予定のヒストリカルゲームボスニア199X、参加者募集中です。
お問い合わせ・参加のお申込はリンク先メールアドレスまで。
お待ちしております!
  

Posted by セルビやん at 21:56Comments(0)スルプスカ共和国

2015年05月03日

セルビア軍装基本のキ!(三)セルビアタイガー/リザード迷彩

tokage

3.セルビアタイガー/リザード迷彩



M89迷彩に次いで使用例が多く認められる迷彩が通称「セルビアリザード迷彩」です。
社会主義時代のユーゴスラヴィアで内務省系統の治安部隊向けに支給されていた迷彩を源流としてスルプスカ共和国が独自に製造していた国産品で、色・柄・裁断ともに無数の派生型が存在しました。

general


野戦天幕、戦闘ツナギ、ジャケット、トラウザーズ、ショートパンツ、シャツ、そしてハーフコート他ありとあらゆる種類の被服が製造・使用されています。

ボスニア内戦後期には米軍M65ジャケットを模倣した4ポケットタイプの派生型が製造されるようになりましたが、初期にはよりM89ハーフコートに近い裁断が主流でした。しかしながらM65型とは別に、初期にもユーゴ内務省の官給ジャケットに由来する初期型4ポケットタイプも存在します。




誤解を恐れずに言えば、このセルビアリザード迷彩はボスニア紛争で多数が使用された一方で日本国内における流通量は極めて限られているため、例え他の迷彩服との混用であっても他のリザード迷彩を所有していないスルプスカ軍装趣味者に蒐集レベルの差を明白に見せつける指標となるアイテムとも言えます。




Balkan Wars Living History Group著
セルビやんこと林鳥巣編訳


■ちなみに

今年2015年11月に開催予定のヒストリカルゲームボスニア199X、参加者募集中です。
お問い合わせ・参加のお申込はリンク先メールアドレスまで。
お待ちしております!
  

Posted by セルビやん at 18:03Comments(1)スルプスカ共和国被服

2015年05月03日

セルビア軍装基本のキ!(二)M89オークリーフ迷彩

M89

2.M89オークリーフ迷彩

最も代表的且つ現在日本国内でも入手の容易な迷彩服は、なんといってもM89カモジャケットでしょう。
セルビアリザード迷彩(※この迷彩服については後ほど別途説明します)の上にこの人民軍残置M89カモジャケットを羽織った姿は、ボスニア紛争の全期間を通じて極めて広汎に見られる軍装例です。

元兵士達の証言によれば、多くのVRS兵士達はM89カモジャケットを無償で支給され、リザード迷彩服は自弁で購入していました。
紛争後期になるとリザード迷彩がより普及し、M89迷彩の出番は少なくなったものの、終戦後も継続して使用されることとなります。

REMOVEM93BAB

注意すべきは、M89タイプのジャケットをコソヴォ紛争(1998~1999)期に広く使われた「M93カモジャケット」と混同してはいけないという点です。
ユーゴスラヴィア連邦国で1993年に生産が開始されたこのジャケットはボスニア及びクロアチア紛争においては着用例が極めて少なく、結論から言えば両紛争の軍装再現には全く場違いなアイテムです。

上図は、M89タイプのジャケットとM93ジャケットのちがいを表したものです。
左の迷彩服がM89、右がM93となります。
裁断やポケットの位置・種類など、全く違う特徴を持った軍服であることがわかります。

迷彩柄の細かい色味の違いも非常に重要です。
1996年以前に製造されたロットを選ぶのが最も正しい選択であるといえるでしょう。
M89裁断のカモジャケットは2000年代初頭に入っても多数が生産され続け、迷彩パターンは毎年変更されました。

初期のM89迷彩は茶色が強く、時代が下るにつれてより青緑色がかった色合いへと変化してゆきました。

NOTM93

ユーゴスラヴィア連邦軍が残置・製造供与したものとは別に、スルプスカ共和国領内のセルビア人達も自力で同じ迷彩柄で米軍M65ジャケットを模倣した裁断の迷彩服や、裏地にボアのついた傍観ベストも独自に製造していました。

M89迷彩服にはトラウザーズも存在しますが、もちろん上下ともに時代考証に適合する正しい迷彩柄で揃えるべきなのは言うまでもありません。
同迷彩柄のハーフコートについては別項で述べます。



Balkan Wars Living History Group著
セルビやんこと林鳥巣編訳


■ちなみに

今年2015年11月に開催予定のヒストリカルゲームボスニア199X、参加者募集中です。
お問い合わせ・参加のお申込はリンク先メールアドレスまで。
お待ちしております!  

Posted by セルビやん at 17:33Comments(0)スルプスカ共和国

2015年05月03日

セルビア軍装基本のキ!(一) ~ボスニア紛争92-95~

koridor



■前文

地球上にかつて数多巻き起こった内戦のご多分に漏れず、ユーゴスラヴィア崩壊後の破壊的な局面にあっては正確には把握できないほど多様な軍服と個人装備が混用されました。

僅か20数年前の出来事であるにも関わらず、ユーゴ紛争における英語ベースの軍装知識は常に不完全なものにとどまり、戦場を写した記録映像も不鮮明で、世界中の軍装マニアの大半は一体何が何であるのか明確に知ることのできないまま今日に至ります。
ユーゴスラヴィアにおける軍服・個人装備は西側とも東側とも異なる特徴を持ち、或いはどちらの特徴をも兼ね備えた独特のものです。

この章に於いては、スルプスカ共和国軍(以後VRSと表記する)将兵の間で広く使用されていた軍服と装備の代表例を紹介し、彼らがそうした軍装品をどのように組み合わせて着装していたのかについて読者の皆さんにわかりやすく説明していきたいと思います。

尚本ブログは様々な民族と政治の対立が巻き起こした地域紛争を言及の対象とはしていますが、政治的な動機には基づかず、あくまで純粋にユーゴスラヴィア内戦の軍装についての学習を目的とします。



■目次

前文

1.VRSの軍服

2.M89オークリーフ迷彩

3.セルビアタイガー/リザード迷彩

4.USウッドランド迷彩

5.MOL「枝」迷彩

6.セルビアDPM迷彩

7.ブタン迷彩

8.M58「山岳」迷彩

9.ユーゴスラヴィア人民軍各種軍服

10.パルカと冬服

11.VRSの個人装備

12.VRSの個人携行火器

奥付

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


JNA


1.VRSの軍服

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人勢力、すなわちスルプスカ共和国(VRS = Vojska Republike Srpske)の軍装品の多くは、もともと1992年ユーゴスラヴィア人民軍が撤退する際、スルプスカ共和国軍が残置していったものを細々とした家内制手工業で、あるいは本格的な縫製工場で小改造を施したものです。



勿論、彼らの身に付けていた軍装品が全て社会主義時代のユーゴに由来するものだったわけではありません。例えばクニンなどで製造されたソ連製TTsKO迷彩(※=ブタン迷彩)のコピー品やアサルトベスト、戦闘ツナギ、ジャケットなどはユーゴスラヴィアにおけるそれまでの軍装品の歴史とは殆ど関わりのない、内戦の所産といえるでしょう。

(二)に続きます。






Balkan Wars Living History Group著
セルビやん編訳


■ちなみに

今年2015年11月に開催予定のヒストリカルゲームボスニア199X、参加者募集中です。
お問い合わせ・参加のお申込はリンク先メールアドレスまで。
お待ちしております!  

Posted by セルビやん at 17:03Comments(0)スルプスカ共和国被服

2015年04月26日

ギリシャ義勇親衛隊(一) ~ギリシャ政府とユーゴ内戦~

1994年当時、ギリシャはセルビアの立場を支持しボスニア・ヘルツェゴヴィナにおけるスルプスカ共和国軍前進基地に対するNATO軍の空爆に一貫して反対した唯一の欧州連合加盟国であった。

94年のはじめ、ギリシャは欧州議会でNATOのボスニア空爆に反対票を投じた。
またイオニア海に位置するプレゼヴァNATO空軍基地使用を認めず、国際連合保護軍へのギリシャ軍参加を拒否した。




アムステルダム大学のC. ウィべス教授によればギリシャの諜報機関ギリシャ国家情報庁(EYP)は1990年代半ばボスニアにおけるNATOの作戦を組織的にボイコットするばかりか、スルプスカ共和国軍への支援を行っていたという。


ウィべス教授はオランダ政府のために作成した報告書「ボスニアにおける諜報活動及び戦争 1992-1995」でEYPがNATOの作戦計画に関わる機密情報(連合軍情報部がどのような情報をどの程度入手したか)をスルプスカ共和国指導部、特にラトコ・ムラディッチ将軍本人に繰り返し漏洩したと主張する。また、そのため95年夏NATO加盟諸国はギリシャ当局と作戦計画の共有を停止したとしている。



(二)に続く


■ちなみに

今年2015年11月に開催予定のヒストリカルゲームボスニア199X、参加者募集中です。
お問い合わせ・参加のお申込はリンク先メールアドレスまで。
お待ちしております!

【ヤフオク!】ギリシャ軍リザードカモ

  

Posted by セルビやん at 15:23Comments(0)セルビア側

2015年01月15日

スルプスカ共和国軍部隊名一覧(一)第1クライナ軍団



ユーゴ紛争関連の軍装趣味を楽しむに当たって、最低限知っておきたい事とは何でしょうか。
映画を観ても小説を読んでも、センセーショナルな戦争犯罪のことばかり強調され、何も見えてはきません(※無視できない重要な側面では無論ありますが)。戦争が醜いものであることは第二次世界大戦でもヴェトナム戦争でも変わりませんが、ことユーゴ紛争に関しては基本的な軍事知識を無視したかたちで倫理的な側面ばかりが強調されているきらいがあります。

日本語のウィキペディアでも、なぜか風変わりな民兵部隊など瑣末な部分ばかり指揮官名も含めて書かれている一方、その他の部隊については殆ど何も判らない内容です。
関連の日本語書籍を読んだところで、クロアチア側の義勇兵として戦った高部正樹先生の著作を除けば、矢張りミリオタが趣味として楽しむのに必要な日本語情報を得られる手段は皆無に等しい状態です。

他の軍装趣味と同様ユーゴ紛争についても、いちミリオタとしてミリオタが必要とする情報を獲得したいと思いつつ今まで未着手でおりました。
その学習の嚆矢として、まずはスルプスカ共和国軍の基礎的な編成に手をつけようと思い、ひとまず簡単に部隊名のみ羅列してみます。

ウィキの引用ですから資料的価値はないです、念の為。
日本語のウィキよりは詳細かな、という程度です。
内戦時93〜95年のデータを元にしており、ある時点での編成を忠実に再現したものではありません。
統廃合された部隊、未編成の部隊も含めて列記してあります。

各部隊の詳細な戦力や部隊史については、興味を持たれた方が個別に調べて頂けたらと思います。
私もテキトーにやる気の湧いた順に調べて参ります。






■スルプスカ共和国軍参謀本部

■スルプスカ共和国地上軍(92~95総兵力8万人前後)

 【 軍団 】

-第1クライナ軍団
-第2クライナ軍団
-第3軍団
-東ボスニア軍団
-サラエヴォ-ロマニヤ軍団
-ドリナ軍団
-ヘルツェゴヴィナ軍団

■スルプスカ共和国空軍及び防空軍(92~95総兵力4000人前後)
 



それでは、以下第1クライナ軍団から。


----------------------------------------------------------------------------------------------------------



第1クライナ軍団
     述べ参加人数12万人(兵力5万1千~6万人)/戦死者6.5千~7千人/戦傷者27千人
     機甲戦力 戦車180輛 装甲車150輛(※編成当初)
   
【 旅団 】

-第16クライナ自動車化旅団
-第1装甲化旅団
-第2装甲化旅団
-第27デルヴェント自動車化旅団
-第43プリイェドル自動車化旅団
-第30軽歩兵師団
-第10クライシュカ歩兵師団(92年後半解散)
-第31ブルチコ強襲旅団

【 軽歩兵旅団 】

-第1バニャ・ルカ軽歩兵旅団
-第2バニャ・ルカ軽歩兵旅団
-第3バニャ・ルカ軽歩兵旅団
-第5バニャ・ルカ軽歩兵旅団
-第1トレバヴチカ軽歩兵旅団
-第1オズレン軽歩兵旅団
-第2オズレン軽歩兵旅団
-第1ヴチャク軽歩兵旅団
-第1グラディシュカ軽歩兵旅団
-第1ドボイ軽歩兵旅団
-第1クネジェヴォ軽歩兵旅団
-第1コトル・ヴァロシュ軽歩兵旅団
-第1クルニン軽歩兵旅団
-第1ラクタシ軽歩兵旅団(戦闘による損耗大により第2クライナ軽歩兵旅団に統合)
-第1ノヴィ・グラード軽歩兵旅団
-第1オジン軽歩兵旅団(93~94年活動後解散、第27デルヴェント自動車化旅団に統合)
-第1プルニャヴォル軽歩兵旅団
-第1テスリッチ軽歩兵旅団
-第1トレビシュカ軽歩兵旅団
-第1スルバツ軽歩兵旅団
-第1シポヴォ軽歩兵旅団
-第1チェリナツ軽歩兵旅団
-第1ポドグルメツ軽歩兵旅団(計画のみ、編成されず)
-第2テスリッチ軽歩兵旅団(第1テスリッチ軽歩兵旅団に統合)
-第2クライナ軽歩兵旅団
-第5コザラ軽歩兵旅団
-第6サンスカ軽歩兵旅団
-第22軽歩兵旅団
-第11ドゥビツァ軽歩兵旅団
-第11ムルコニチ軽歩兵旅団
-第19ドニ・ヴァクフ軽歩兵旅団

【 砲兵部隊 】

-第1~第9混成砲兵連隊
-第1混成対戦車砲兵連隊
-第1軽砲兵連隊(※防空部隊)

【 後方部隊及び二線級部隊 】

-第1~第9工兵連隊
-第1架橋大隊
-第1~第9通信大隊
-第1~第9憲兵大隊
-第1自動車大隊
-第1衛生大隊
-メシャ・セリモヴィッチ第1独立ムスリム大隊(第27自動車化旅団に統合)
-マニャチャ教化隊
-第36独立戦車大隊(※クライナ軍から転入した戦車部隊)
-第30通信大隊
-”ヴチャクの狼”強襲大隊(※開戦時は第27自動車化旅団の一部だった)

【 戦術作戦集団 】

-戦術集団1
-戦術集団2
-戦術集団3
-戦術集団4
-戦術集団5
-ヴラシッチ作戦集団
-ドボイ作戦集団(※=第9作戦集団)
-プリイェドル作戦集団
-バニャ・ルカ軽旅団群

----------------------------------------------------------------------------------------------------------



筆者の語学力不足により、部隊名等一部翻訳には間違いが含まれている可能性もあります。
もしお気付きの点がございましたら、忌憚なくコメントをお寄せ下さいますようお願い申し上げます。

なお当ブログでは軍装趣味のみを純粋に楽しむため、戦争犯罪等に関する政治的なコメントはお控え願います。
これはひとり日本人ミリオタの自己満足のためのローカルルールではなく、旧ユーゴ諸国含む各国のミリタリーマニアが集うサイトでも一般的なルールですので、お知り置き頂けましたら幸いです(※したがって「勝手ながら」とは前置きしません)。
当ブログもこの基準を準用して運営して参る所存です。

ミリブロではミリブロらしく、大上段の政治談義はさておきスルプスカ共和国軍の実際について少しずつ調べてゆきたいと思います。
(二)に続きます。



■ちなみに

今年2015年11月に開催予定のヒストリカルゲームボスニア199X、参加者募集中です。
お問い合わせ・参加のお申込はリンク先メールアドレスまで。
お待ちしております!

  

Posted by セルビやん at 18:59Comments(0)スルプスカ共和国

2015年01月13日

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦軍歩兵装備一覧




紛争終結のわずか4年後に発行された、1999年度「新兵のための手引」よりボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦陸軍新兵(レグルト)が入隊時に支給される需品一覧を抜粋・翻訳しました。


(※ちなみにこの袖章は、当マニュアルが書かれたのと同時期、内戦終結後(=VH BiH ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦軍時代)の総軍章です。ボスニア内戦(=ARBiH ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国軍時代)リエナクトでうっかり使うと赤っ恥です)

■装備品リスト

1st 3ピース戦闘服 1組
2nd ベレー/野戦帽 各1点 
3rd 迷彩ベスト 1点 
4th シャツ 1点 
5th ODベルト 1点 
6th ハーネス及び背嚢 1点
7th 戦闘靴 1足  
8th サンダル1足 
9th 軍用靴下冬用 2組 
10th 軍用靴下夏用 2組 
11th 冬用下着2組 
12th 夏用下着2組  
13th 手袋1組 
14th サービスドレス 1組 
15th タオル 2点 
16th バラクラバ 1点 
17th 帽章1点
18th 袖章1点  
19th 飾緒 、肩章各1組 
20th 枕カバー 1枚 
21st シーツ2枚
22nd ファーストエイドキット1点 
23rd 野戦天幕1枚 
24th ヘルメット1点
25th 野戦円匙 1点
26th 水筒1点

■制式小銃(7.62mm弾薬使用部隊)
ザスタヴァM-70自動小銃/ザスタヴァM-72軽機
■制式機銃(同上)
ザスタヴァM84

■制式小銃(5.56mm弾薬使用部隊)
M16A1

■制式機銃
M60汎用機関銃

■その他制式機銃 7.92mmザスタヴァM53汎用機関銃

■制式対戦車火器M57無反動砲、RPG-7


もっと大きな支援火器や手榴弾の種類、各兵器のオプションや需品、重量等諸元についてはめんどくさいので省略しました。

悪しからず。


以上簡単ではありますが、戦場写真や動画を観察する際の参考にしたり、アイテム収集の筋道をつけるのには少しはお役立て頂けましたら幸いです。

尚明記してありませんが、需品は当然大半が旧ユーゴ製及びボスニア国産である一方、紛争中クリントン政権黙認の下行われた密輸武器・・・もとい諸外国からの心温まる人道支援物資も大いにご活用頂けるものと思います。

また実際には内戦終結後から今に至るまで、M16やザスタヴァM70だけではなくHK G3や56式自動歩槍等さまざまな銃器が使用されており、こちらについてはウィキペディア等ネット情報や画像掲示板をご参照頂いた方が手っ取り早いかと存じます。

此処ではあくまで教本という一次情報をのみ一部紹介させて頂きました。

■ちなみに

2015年11月に開催予定のヒストリカルゲームボスニア199X、参加者募集中です。
お問い合わせ・参加のお申込はリンク先メールアドレスまで。
お待ちしております!  

2015年01月13日

我らがスルプスカ共和国



Hoce da je otmu, hoce da je ruse
Oni bih da nestane, hoce da je uguse
X2

奴め彼女を拐う気だ、襲う気なのだ 
奴らBiH(※)が逃げる、首を絞めようとしている!

I nedaj da nam uzmu nju, nasu zemlju voljenu
Ona je ko ikona, lijepa je ko slika
To je nasa Srpska Republika

奪られてなるか 我が愛する祖国
彼女はイコン、名画のように美しい
それが我らの スルプスカ共和国!


Ne dirajte u nju, ona vasa nije,
Srpska je za Srbina, nesto najmilije
X2

触るな!彼女はお前らのものじゃない
スルプスカはセルビア人、愛されし者のもの

I nedaj da nam uzmu nju, nasu zemlju voljenu
Ona je ko ikona, lijepa je ko slika
To je nasa Srpska Republika
X2

奪られてなるか 愛する祖国
彼女はイコン、名画のように美しい
それが我らの スルプスカ共和国!

Za nju su se borili, zivote su dali
Za Srpsku su ginuli veliki i mali
X2

彼女のために 彼らは戦い生命を捧げた
大人も子供も セルビアの民のため死んだ

I nedaj da nam uzmu nju, nasu zemlju voljenu
Ona je ko ikona, lijepa je ko slika
To je nasa Srpska Republika
X2

奪られてなるか 我らが祖国
彼女はイコン、名画のように美しい
それが我らの スルプスカ共和国!

(※)BiH = Bosna i Herzegovina ボスニア・ヘルツェゴヴィナ。
-----------------------------------------------------------
絵のように・・・二次元厨かな?国擬人化勢かな?()
誤訳とか、「この方が歌詞として美しい」など御意見ありましたら是非お寄せ下さい。

今年2015年は秋にボスニア紛争リエナクトもありますし、とても楽しみです。
3月15日に千葉某所でその前哨戦として、ユーゴ内戦軍装で集まっての貸切ゲームも開催されます。
御興味ありましたらお気軽にコメント下さい。  

Posted by セルビやん at 10:52Comments(0)スルプスカ共和国軍歌

2014年04月13日

ミリフォトで晒されてしまった件について

「ミリフォト」の略称で国内ミリオタの間でも有名な海外の巨大軍事画像掲示板「Militaryphotos.net」

そのスルプスカ共和国軍スレで(※一部流血あり 閲覧注意)

http://www.militaryphotos.net/forums/showthread.php?232897-Army-of-Republika-Srpska-1992-1995-READ-THE-FIRST-POST/page2

ああああああああ

http://zaslike.com/files/2e8936ikfv9dpy70ekqf.jpg

自分の画像を・・・発見してしまいました・・・(※撃たれて倒れてる方)

http://www.cosp.jp/photostock_book.aspx?id=564061

↑コスプレイヤーズアーカイブのフォトストックにUPした元画像

「昭和の写真ジェネレーター」を使って日付を入れたのが仇を為したか、本物と勘違いされてしまったようですw

いや・・・ないだろ・・・AIMSに東独スリングでスルプスカ軍とかさ・・・建物とかさ・・・色々考証ガバガバじゃん・・・・・・?  

Posted by セルビやん at 22:12Comments(0)スルプスカ共和国

2013年11月13日

スルプスカ軍装撮影会2013



6月に実施した山岳軍装撮影会のようすです。
1993-1994頃のスルプスカ共和国軍を想定。



































  

Posted by セルビやん at 13:54Comments(0)スルプスカ共和国

2013年09月06日

ユーゴ内戦におけるロシア人義勇兵について(二)

(二)コソボの戦い



1999年のNATOによる空爆を受け、多数のロシア人が義勇兵として駆けつけた。
当時コソボにはおよそ200名ものロシア人義勇兵がおり、実にその半数がウクライナ出身だった。
義勇兵達は10~15名の小部隊に分かれ、ラスカ、デチャニ、またコソボ解放軍の聖域となっていたアルバニアとの国境地帯などコソボ各地に展開した。


コソボ紛争では2人のロシア人義勇兵が戦死している。 また、2001年8月のマケドニア紛争では8人のロシア人義勇兵がアルバニア人分離主義者との戦闘に参加した。




2001年のマケドニア紛争を含む広義のユーゴスラビア紛争において、ロシア、ブルガリア、ギリシャ、ルーマニアその他の国から来た計529~614名の義勇兵達がセルビア人そして正教信者のために戦い、40名が戦死したとされる。

これらの義勇兵達は個々の能力や必要に応じて適所に配置されたものの、部隊間の移籍は個人の自由であった上にいつ帰国しても、いつ部隊に復帰しても自由であった。

http://www.youtube.com/user/stjagvideo


(おわりに)

以上はスルプスカ共和国義勇兵連合ウェブサイトよりアレクサンドル・クラフチェンコ氏の解説を抜粋、要訳したものです。
写真資料も添付できればよかったのですが、時間の関係で動画リンク中心の簡易的なアップとなりました。動画を眺めているだけでも、ロシア人義勇兵たちの思い思いの服装は軍装趣味の上でも実に興味深い特徴に溢れています。

ユーゴ軍の各種戦闘服に交じってKLMKなどのロシア軍服やデンビルじみたコサック服、 襟元から覗くいかにもロシアを思わせるチェリニャーシカ(縞シャツ)など・・・

ロシアやウクライナほか旧ソ連諸国の軍装趣味をもともと楽しんでおられる皆さん、あるいは今のところ特にそれといったジャンルを持たない皆さんが、セルビア軍装趣味を気軽に、ちょっとつまみ食いしてみたい・・・という時、こうした外国人義勇兵たちの軍装例を真似てみるのも面白いかもしれません。

なんたって、上がカモシャツで下はジーンズなんてラフな恰好もありなら、必ずしもユーゴ製AKであるツァスタバM70でなければいけない!ということもないのですから・・・注意深く動画を観察してゆくと、果たしてどうやって持ち込んだのか?中にはAK74を撃っている映像やギリシャ製と思しきH&K G3を持っているロシア義勇兵の姿までもが見つかります。

今後もこのテーマについては更に細かく取り上げてゆくつもりです。

またこの文章ではロシア人以外の義勇兵についてもほんの少しだけ触れていますが、実際には(さすがにロシア人ほどではないにせよ)文中の表現から受ける印象よりも遥かに多い人数の外国人義勇兵が参戦していたのではないかと考えています。
特にギリシャ人義勇兵は、以前私が見たバス移動の映像一つとっても優に数十人が参戦していたことが確認できました。
これについても後日資料の翻訳が終わり次第別項を設けて取り上げたいと思います。
  

Posted by セルビやん at 21:41Comments(0)外国人義勇兵セルビア側

2013年09月06日

ユーゴ内戦におけるロシア人義勇兵について(一)



(一)ボスニア・ヘルツェゴビナ

最初に戦火のユーゴを訪れ、ロシア人義勇兵の組織的誘致を主導したのはカザフスタン出身の二人のコサックであった。彼らはセルビア民兵組織ベリ・オルロヴィ(=英名ホワイトイーグルス、別名アベンジャーズ)と密接な協力関係を構築した。


まず50人のコサックが到着した。ドン、サラトフ、モスクワ・・・一部の一匹狼を除けば、彼らは概ね各都市のコサック団体を代表して派遣された兵士達だった。部隊は3人のアタマン(※頭領)の元、2ヶ月の間ヴィシェグラードにおいて戦闘に従事した。

この3人のアタマンの一人、ヴォルゴドンスク出身のコサック大佐ゲンナジー・コトフは1993年2月に戦死しており、ロシア義勇兵運動史においては最も英雄的なアタマンであると位置づけられている。



1993年2月下旬、ヴィシェグラードに新たなロシア人義勇兵達が到着した。第2次ロシア義勇兵団【ツァーリの狼】である。彼らの多くはコサックではなかった。1993年3月10日、第1義勇兵団の生き残りと第2義勇兵団は合併し、総勢35名の合同兵団を結成した。


兵団は合併したものの、基本的にコサック兵のみは独自のアタマンが指揮した。この集団は1993年5月まで活動し、ヴィシェグラード郊外のザグラヴァク丘陵地帯における二度の攻勢に参加した。

1993年の夏頃には、この合同兵団は既に統一した指揮を失い崩壊状態にあった。多くの義勇兵達は1~2人ずつに別れてセルビア人の民兵部隊に混じって活動した。時折これらのロシア人義勇兵達は再度寄り集まって5人前後の小部隊を結成した。これらの分隊はオズレンスキー隊などと呼ばれた。

※この「オズレンスキー」はボスニア中央部ゼニツァ=ドボイ県の山オズレンに因むと思われるが、正確な由来は不明

1993年10月ついに第2義勇兵団は最終的な解散を迎えたが、大部分の残存兵は(当時スルプスカ共和国軍の野戦陣地となっていた)サラエヴォ郊外のユダヤ人墓地で再結集を計った。1993年11月、アレクサンドル・シクラボフを指揮官として第3義勇兵団(スルプスカ共和国軍サラエヴォ第1軍団第3歩兵大隊奇襲小隊)が結成された。この部隊は多くの作戦に参加し、其の内の幾つかでは成功を収めた。




――その代表例が、1993年10月に敵武器工場を奪取した「ゴラジュデの勝利」である。第3義勇兵団はその活動期間中60~80名とボスニア内戦におけるロシア人義勇兵組織としては最大の兵力を有したが、1994年に指揮官A.シクラボフの戦死を以て遂に解散した。



・・・90年代のコンバットマガジンやアームズマガジン、GUN誌に取材記事が掲載された在日韓国人義勇兵の片桐克彦氏(仮名)もセルビア急進党経由でパンテリ旅団に入隊しサラエボのユダヤ人墓地で塹壕の防衛に当たったと語っているが、この時彼が目撃した「(非熟練兵の自分とは違って)練度が高く、偵察や攻撃的な作戦に参加して死者も出していたロシア人やルーマニア人から成る小隊」とは恐らくこの第3義勇兵団を指すものと思われる。

・・・1994年夏、解散した第3義勇兵団の残存兵達はふたたび10~15名から成る小集団に分散し、1995年11月の終戦までボスニア各地で戦い抜いた。

1995年秋、中央ボスニアで激しい戦闘が始まった。デイトン合意により終結が目前となったこの戦争を勝利で終わらせるため、スルプスカ共和国軍が最後の大攻勢に出たのだ。敵主力撃滅の戦略目標を達成するため、ニシュ高地に兵力が集められた。




この攻勢において重要な役割を果たしたのがスルジャン・クネジェヴィチ率いる特別部隊「べリ・ブコヴィ(白狼隊)」である。第3義勇兵団の残存兵をはじめ外国人義勇兵は殆ど全てがこの部隊に参加した。白狼隊はロシア人を糾合した部隊として戦争終盤で最も有名な部隊となった。




部隊の司令部はサラエボから20km離れた、ヤホリナスキーセンターに設置された。かつてサラエボ五輪会場であった施設である。ここでは50~80人のロシア人、およそ10人のブルガリア人、ギリシャ人、ルーマニア人その他の外国人義勇兵が作戦に従事していた。




1995年秋、少数(7~10名)のロシア人義勇兵達が白狼隊から脱退し、ヴラセニツァに移って特別部隊「ドリナの狼」遊撃隊に入隊し、終戦まで残留していたという。そこではまた10名のギリシャ人が「ギリシャ義勇親衛隊」と名乗って活動していた。

(二)へ続く
  

Posted by セルビやん at 21:09Comments(0)外国人義勇兵セルビア側

2013年08月10日

M80"ゾーリャ"64mm対戦車ロケット(二)



先日ZEEKケイホビー定例会にて、サバイバルゲームの合間に撮影して頂いた写真。



コソボ紛争時ユーゴスラヴィア連邦軍 地上軍憲兵装備をイメージした出で立ちで臨んだのですが、ゲーム中実際にメインアームにしていたMP5A2やかぶっていた黒ベレーはゲーム前に慌ただしく自撮りしたブレブレ写メのみにて省略。
要するにM80ゾーリャを構えたかっただけなので・・・。

■装備リスト
・M89ケブラーヘルメット
・M93迷彩服上下
・M77コンバットブーツ
・MD97ナイロントラウザーベルト
・MD97ウェブベルト+ホルスター
・MD97アサルトベスト
・M80ゾーリャ対戦車ロケット

いずれも官給品実物。






今後はスルプスカ軍やユーゴ警察装備、ボスニア軍などにも使い回したいですね。
(※画像はボスニア軍第5軍団の歩兵。1995年9月、ボスニア西部)



※追記:あす日曜のC84二日目、M80ゾーリャをコスプレ広場に持ち込んでみようと思います。
たぶんユーゴ軍M77夏季野戦軍装かテキトーにアルカン・タイガースの格好でもしていると思いますので、ゾーリャに触ってみたい方はどうぞ声をかけてやって下さい。  

2013年08月02日

M80"ゾーリャ"64mm対戦車ロケット(一)


ユーゴスラビア製の携帯式対戦車兵器といえばパンツァーファウストの直系子孫たるM57及びM58、仏製89 mm LRAC F1対戦車ロケットの改良版M79オサ、RPG-18の改良版M80ゾーリャ、それにM90ストルシュレンですが、


当ブログの主セルビやんはそのうちの一種類だけ、M80ゾーリャを所有しています。



・・・もちろん発射済の無稼働品ですが(笑)

日本語ウィキペディアにも項目がないので、以下簡単にどんなものか御紹介してみたいと思います。
文章構成はLAW M72ウィキのほぼ丸パクリです。



正式名称:64mm無反動砲M80
愛称:ゾーリャ
開発国:ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
開発時期:1980年

かつての製造国:ユーゴスラビア
現在の製造国:セルビア、マケドニア
現在のメーカー:オクトーバー11 ユーロコンポジット(マケドニア)

使用国:
ボスニア・ヘルツェゴビナ
クロアチア
インドネシア
モンテネグロ
セルビア
シンガポール
スロベニア



M80ゾーリャ(Zolja=セルビア・クロアチア語「スズメバチ」)は、1発の成形炸薬弾を、2本の筒を1列につなげた発射器で梱包した構成である。
ソ連製RPG-18やチェコスロバキア製RPG-75同様、米国製LAW M72の影響を受けて開発された対戦車ロケット弾だ。



運搬状態では、ファイバーグラス製の発射器後部は同じくファイバーグラス製の前部発射器の中に収納されている。この状態では、発射器は防水容器の機能を持ち、また弾薬の点火系列は遮断されて安全に運搬できる。



発射器前部には上部に押し込み式のトリガー、折り畳み式の照星と照門、下部に後部ガス噴射口カバーがつく。発射器後部には点火装置が設けられている。

発射手順は以下のとおり。



(一)砲口カバーの口金を外す。ばね仕掛けにより自動的に照星が立ち上がる
(二)後部ガス噴射口の口金を外す
(三)後部を引き伸ばして展開する。このとき同時に照星カバーに押さえ付けられていた照星がばね仕掛けで立ち上がる。また、この時点で正常な装填状態になっていれば後部は引き出し限界位置で固定される。
(四)後部を肩に乗せ射撃姿勢をとる。照門と目との距離は10~15cm離す。
(五)照門後方の安全装置を引き出し解除する。
(六)標的に照準する
(七)照門前方の点火系接続ボタンを押す。これにより初めて発射可能な状態となる
(八)点火系接続ボタンの前方にある発射ボタンを押し、ロケット弾発射!



弾薬は口径64mmの成形炸薬弾で、PIBD信管と弾道を安定させる6枚の翼がある固定弾である。翼は弾底部にあり、ヒンジを介して前方に折り畳まれた状態で装填されている。射入角90度で最大300mmの鋼板を貫通する能力を持つ。自爆機能が備えられており、目標に命中しなかった場合飛行時間4~6秒で爆発する。



照準は、25m毎の目盛がついたプラスチック製照星を照門から覗き込んで行う。トリガーの前にある安全装置を解除し、トリガーを押し込むと弾薬に内蔵されている推進薬が燃焼して約760℃のガスを後方に噴射し、ほぼ無反動で発射される。



後方危険地域は軸線後方の左右30°距離40mの範囲で、発射時にはこの範囲に高温のガスを噴射する。一度射撃した発射器は次弾の再装填はできず廃棄される使い切り式である。



ユーゴ内戦ではユーゴスラビア軍及びユーゴスラビア軍から派生したスルプスカ軍、同じくユーゴスラビア軍から武器供給を受けていたクライナ軍及びその傘下の民兵集団は勿論、スロベニアやクロアチア、ボスニア、コソボ各民族の独立勢力も鹵獲及び購入(※セルビア人側の民兵集団は一部が大規模な武器横流しに携わっていた)優勢な機甲戦力を持つユーゴスラビア軍に対し多数を投入した。



現在でも旧ユーゴ圏やかつての非同盟諸国を中心に使用され続けている。


諸元
口径          64 mm
総重量(弾薬含む) 3.00 kg
重量(弾薬除く)   1.58 kg
弾薬重量       1.42 kg
運搬時全長     860 mm
発射時全長     1200 mm
最大貫通装甲厚  300 mm
最大射程 1280 m
有効射程(移動目標) 250m
有効射程(固定目標) 400m
銃口初速 190m/s


LAW M72に比べるとかなり長くて重いですね。


【民間での使用例】

1999年11月クロアチアでの犯罪組織による使用例(対立するクラン同士の抗争で使用。暗殺目的で発射されるも標的を外れ、無関係の市民1人が犠牲となる)


2003年3月セルビア首相ゾラン・ジンジッチ暗殺事件における使用状況(高速道路で待ち伏せ、首相の車列を狙う計画だったが、実行犯のひとりミレンコヴィチがトラックで車列を停止させる当初の手順を果たせなかったため失敗 ☓)

その他イタリアを中心にヨーロッパ各地で犯罪組織の密輸品が摘発されており、紛争地でもおそらく使用されているものと思われます。

ソースがインターネットの引用ばかりで雑な内容となってしまいました。
いずれユーゴ軍教範の該当項目を翻訳するなどした上で、ユーゴ内戦中の使用例動画や写真資料をもっと数多く集めて再度発表できたらいいなと思っております。

蛇足ですが、2本あっても仕方ないなということで1本はヤフオクに出品中です。
ご興味ありましたら、是非そちらも御覧下さい。


↑ 落札されました。御覧頂いた皆様、ありがとうございました。


おまけ:ボスニアのランボーネジャド・クリチッチさん



そのスネーク邪魔じゃないですかクリチッチさん。
M80ゾーリャ発射シーンは2:16あたりです  

2013年07月17日

ナニコレ珍弾帯 -アルバニア軍チェストリグ番外編

今回はちょっとしたウッカリの話です。
先日某所にてアルバニア軍チェストリグ!?と思しきコットン製の弾帯を衝動買いしたのですが・・・



家に持ち帰って改めてしげしげ眺めてみたところ・・・どうも違う。


以前にも御紹介したアルバニア軍チェストリグ(※使用例写真にて検証済みの真物)はこちら。
全然似てない。
アルバニア軍やコソボ解放軍の画像を検索してみても、私が以前入手したのと同様のタイプについては使用例がいくつか引っかかるものの、今回入手の物の同型は見当たりません。


比較対象として中国軍の五六式弾帯画像も貼っておきます。
やはり異なる。
ではどこがどう違っていて何処が似ているか。


ショルダーストラップ胸側基部。


ショルダーストラップ脇側基部。

【謎チェスト】
・AKマグポーチ×3
・小ポーチ×2
・ショルダーストラップ脇側基部に非鉄金属(亜鉛?)のベルトバックル
・エジプト軍マアディ自動小銃スリング近似の濃緑ショルダースリング
・ウエストストラップが細い
・ショルダー/ウエストともにストラップ生地の基部は本体の中に縫いこまれており着用感良好
・薄手で中国軍のものとは似ても似つかない柔らかい生地
・フラップは四角く縁取りがない、細長く黒いプラスチックのトグルボタン。操作感覚はRD54に近い
・マグポーチ底補強部分の被りが浅く強度に難点
・入手先:不明、売主にも知識なし
・重量約280g

【アルバニアチェスト】
・AKマグポーチ×3
・小ポーチ×4
・中央部ショルダーストラップ基部に長方形ステンレス製ループ
・鉄製ベルトバックル
・胸側、脇側ともにショルダーストラップ基部が完全に露出しているため、着用感が悪く長期着用時は身体に擦過傷が出来る恐れ
・ウエストストラップが細い
・粗末な劣化版P44風の非常に柔らかいコットン生地
・フラップは丸みを帯びており形状のみ五六式近似、しかし縁取りもなく脆弱。トグルボタンは五六式の物よりやや大きめ、褐色の樹脂製
・マグポーチ底補強部分は中国軍五六式弾帯と同様十分に深いものの布地が柔らかすぎ、強度に難点
・入手先:伝:コソボ紛争時セルビア警官による戦利品、スルプスカ共和国の軍装マニアより入手
・重量約350g

【五六式弾帯】
・AKマグポーチ×3
・小ポーチ×4
・ショルダーストラップ側面基部にDリング
・合皮ベルトループ
・全てのストラップ類基部が本体の生地内側に縫い込まれており、着用感良好
・全体的に前二者より丁寧な縫製、頑丈な分厚いコットン生地
・小ポーチの一部に防水処理が施されている
・マグポーチ底補強部分は被りが深く非常に頑強
・入手先:中田商店様
・重量約480g


・・・ああ・・・そういえば中国って大国だったよね・・・と改めて再確認させられる情けないスペック最下位競争。五六式弾帯つおい

しかしそんなわかりきった繰り言を吐いてもこのチェストリグが正体不明であることに変わりはありません。

生地は柔らかいもののヨーロッパの北朝鮮ことアルバニアの官給チェストリグ生地と比べるとややキメが細かく、やや硬質な手触りです。似てない・・・腰ひもが細いところくらいしか似た箇所がない。
どうして私はこんな謎チェストリグを買ってしまったのでしょうか。

やはり鍵はスリングの形状にあるように思います。
エジプト製のAK用ライフルスリングに似ているということは、中東で製造されたものなのではないか?
例えばイラクとか・・・今後はこの方面で調査を進めてゆきたいと思います。

要するに、何の結果も得られませんでしたあああああああ!!状態でのオチなし駄ブログで今日は済ませちまえという腐れ根性な訳です、すみません。

また進展があれば続きを書くかもしれません。
もし何か心当たりのある方おられましたら、是非コメント欄にて御教授願いたく存じます。  

Posted by セルビやん at 00:27Comments(2)個人装備

2013年05月27日

アルバニア軍チェストリグ考



スルプスカ共和国にいる知人から、アルバニア軍のチェストリグを手に入れることができました。



アルバニア軍やUCK(コソボ解放軍)の写真・映像資料から、「中国軍の五六式弾帯にそっくりだな。トグルボタンも似てるなあ」などと素朴に考えていたのですが・・・



中国軍のがっしりしたキャンバス生地とは似ても似つかない、織りが荒くヨレヨレと柔らかいコットン生地・・・。



第三世界の軍隊でよく見る英軍P58の劣化コピーに近い?印象です。
ミャンマー軍あたりのコットン装備と並べて比較してみたくなります。


裏面には検定印もタグもありません。
ポーチのフラップ裏などくまなく探しましたが、残念ながら全くの無銘のようです。


トグルボタンの特徴も五六式弾帯とは大きく異なることがわかります。
まず材質は木製ではなく樹脂でできています。
仕上げは荒く成形時のバリが残ったまま、コンニャクのような濁った色をしています。
きれいな仕上げの中国製とは対照的ですね。

直径は1cm程度とほぼ同じですが、五六式弾帯のそれが2.6cm程度の長さであるのに対し、アルバニア軍用は3cmとサイズはやや大きめです。

また先の尖った双円錐型の五六式弾帯用に対し、両端が丸い半球になった円柱状とかたちも全く違います。ソ連軍のRD-54やリフチクのフラップに採用されている樹脂製トグルボタンの肥満児Ver.といった印象です。



コソボ紛争の画像を漁ってみると、もっと真っ黒な色やよりOD色のように見えるボタンが使われている場合もあるようです。
後者については単なる写真の発色の違いで、実際には私が入手したのと同じ色の可能性もありますが・・・いくつかバリエーションがあるのかもしれません。



このチェストリグのユーザーは、実はアルバニア人サイドのみに留まりません。



紛争初期、やたらと目立つ青い迷彩服と軍用小火器(ツァスタバM70/M84他)を渡されただけで、満足にアサルトベストもボディーアーマーも支給されず火砲の支援すらないまま現地に派遣され激しい銃撃戦に晒されたユーゴスラビア警察のおまわりさん達は、ベスト類を自作したり、敵であるコソボ解放軍から装備を鹵獲して使っていました。

写真のものは、トグルボタンの色も含め今回入手したものにとても近いタイプですね。

何の因果か日本人ミリオタの手に落ち、これからあろうことかサバイバルゲームやらコスプレ撮影会やらといったお遊びに引き回される運命にあるこのチェストリグも、実はユーゴ(セルビア)側が鹵獲した品とのこと。

そのうちスイス軍やドイツ軍の迷彩服、コソボ解放軍の徽章などを揃えてUCK装備を楽しみたいのはもちろんですが、ユーゴ/セルビア贔屓の筆者としては、まずはいの一番写真と同様M91ブルーリザード迷彩と合わせてユーゴ警察装備に「悪用」したいと思います(笑)。
幸いブーツや手錠以外は必要な装備も既に入手済みですし・・・。

そういえば同じ知人から譲って貰った名札付きのボスニア軍ヘルメットカバーも鹵獲品という話でした。
ボスニア内戦時、スルプスカ共和国軍の兵士として戦闘に参加した彼のお父さんがある山岳地帯でボスニア軍と戦って生還した際、おみやげとして持って帰ったものだそうです。
そちらはかなり生々しく「戦闘の激しさを物語る」状態なので、このブログで御紹介するかどうかはわかりません。機会があればまたそのうちに。



1999年4~6月コシャラの戦いの記録映像(コソボ解放軍サイド)。
NATO軍機による空爆に晒されながらも、ユーゴスラビア連邦軍がコソボ解放軍の攻勢を挫いて勝利した戦闘です。
6:20行進シーン他、アルバニア軍チェストリグが頻出します。
他にもクロアチアやボスニア製のアサルトベストを着ているのがわかりますね。
この動画には登場しませんが、コソボ解放軍を支援していたトルコ軍の官給AK用ベストやブルガリア軍スプリンターカモチェストリグなども着用例が確認されています。
  

Posted by セルビやん at 05:18Comments(0)コソヴォ個人装備

2013年05月17日

MD97アサルトベストMP5仕様

埼玉県日高市にある新しいインドアフィールド、ZEEKの平日ナイトゲームに参戦してきました。



多少増減はあったものの参加人数は総勢13名を上回ることなく、まるで貸切のような雰囲気で快適なゲームを楽しめました。



ZEEKのロゴ、かっこいいですね。




当日の私の格好。
こう見えて適当なサバゲ装備で、全然軍装じゃないです。
ただ単に新しく買ったベストを使ってみたかっただけ。

【装備リスト】
・適当なワンホールバラクラバ
・適当なサバゲゴーグル
・ユーゴ警察官給M91ブルーリザード迷彩
・ミレ・ドラギッチ製MD97タクティカルベスト(憲兵特殊部隊向け、H&K MP5専用特別仕様)
・同 警察用ナイロンベルトキット
・ユーゴ軍官給M77バックルブーツ

・CYMA 電動H&K MP5A2
・東京マルイ GLOCK17GBBカスタム
・東京マルイ エアコキガバ(・・・。)


絶対に参考にしないで下さい。
せめてハンドガンはSIG系統にしましょう。

着用している黒いタクティカルベストは、前回「正体不明」としたMP5用のベストです。



これは2003年頃の内務省特殊対テロ部隊(SAJ)による装備例です。
03年式軍装のお披露目に合わせて当時のセルビア・モンテネグロ政府が公開した何枚かのカッコツケ写真のうちの一枚。
マグポーチのフラップはマガジンの後ろに回してしまい、完全にオープントップの状態で使っているのがわかります。



ドットボタンの周りをかさ上げしていないため、ベルクロが役に立たず勢いフラップは閉じないで開きっ放しにしてしまいがちになります。


コソヴォ紛争であれだけ多数が配備されたMDシリーズのアサルトベストが、すぐに更新されたのもうなずけます。
ただAK用と同様いちいちフラップを閉めなくても脱落する心配がないくらいサイズがキツキツなので、ダンプポーチさえあればサバゲには問題なく使えると思います。
次は私もガスマスクバッグかファストロープ用のレッグポーチでも入手してダンプ代わりに使おうかと。



だがしかし同系統のベストを使い続けるSAJ(2008年)。
ふたつある攻撃部隊のうちAチームとBチームどっちかはわかりませんが、兎に角攻撃部隊のCT要員ですね。

何故だ・・・少しは改善されてるんでしょうか?
ひっかかり防止のためメッシュから通常のナイロン生地に、またホルスターがより汎用性の高い物に交換されており、また素早く脱着できるよう胸の部分にフィンガーホールが設けられているようですが、「問題の」マグポーチは全く同型に見えます。

ラペリング時逆さになっても脱落する心配はなさそうだし、訓練で酷使してもそうそう使用不能にはならないだろうとは思いますが。

まあユーゴ軍装道を淡々といく身としては装備に自分を合わせるほかありません。
某コスタ氏のように「マガジンポーチとか一貫性がないから嫌い」というわけにはいかないのです。
オールドスクールな90年代ナイロン装備として、愛を持って大事に使っていきたいと思います。

とりあえず、近いうちにアサルトスーツとレッグマグポーチを追加入手予定です。  

2013年03月24日

90年代ユーゴスラヴィアMP5用アサルトベスト

以前「着装写真以外うpしないでござる。アイテム単品ネタは自分的にNG」的な発言をした気がしますが、忘れることにします。
詳しい正体は不明・・・というより殆ど何の予備知識もないまま先日つい衝動買いしてしまったのがこちらの装備です。



一見してツァスタバM70用のM97アサルトベストと同系列とわかるデザイン。

・MP5用マガジンポーチ×4
・ツァスタバCZ99専用ホルスター
・同マガジンポーチ×2
・フラッシュバン/スモークグレネード用ポーチ×2(背面)

上記の固定ポーチに加え各部に装備追加用の50mm規格ナイロンテープを備えています。



内務省隷下の対テロ部隊・・・恐らくは特殊警察部隊PJP(ペー・イェー・ペー)の中でもユーゴ製の銃器を用いず専ら外国製の銃器・・・主にH&K製・・・を用いていたとされる作戦集団OPGが用いていた可能性が高いと思われます。

他のPJP部隊(「ムニャ」=閃光部隊やJSO)に比べてOPGは警察一般部隊との接触が少なく、常に隠密行動に徹する謎に包まれた部隊とされており、そのため「霧」部隊という通称を持っていました。

コソヴォ紛争時の戦場写真や報道映像を漁っていると、時折黒いナイロン生地のM97アサルトベスト(ただし、いずれもAK用)に出食わすことがあるものの、そこから先は何も掴めないのが歯がゆいところです。



去年、スルプスカ共和国に住んでいる某ミリタリーマニア氏から「コソヴォ紛争の間PJPはMP5専用のポーチを備えたタクティカルベストを保有しておらず、専らツァスタバM70用のマガジンポーチにMP5のマガジンを入れていた」という証言を得ているものの、当時の戦場写真を見ると揃いのブルーリザード迷彩に身を包んだPJP隊員達は多くの場合ツァスタバM70やM76を携行しており、残念ながら未だに証言の確証は取れていません。



時折「身元不明の謎の人物」などとして俎上に上がるこちらの写真は、空挺徽章を身につけていることや第63空挺旅団戦友会のオリジナルベースボールキャップから同旅団憲兵大隊所属であることが判明しています。



また、こちらのMP5装備例写真も右袖の徽章とM89迷彩の戦闘服から内務省ではなく軍の憲兵であることが明白です。
恐らく憲兵対テロ特殊部隊コブラ中隊の隊員と思われます。

実際にM97アサルトベストの固いフレームが入ったAK用マガジンポーチにMP5マガジンを挿入・引き出しを試みてみると、かなりしっかりとテンションがかかり脱落の心配はなさそうに思えました。
走っている内にマガジンがポーチ内で傾いてしまい、取り出しづらくなるのが難点ですが・・・
ましてや欲張って2本ずつ入れた日には、マグチェンジの際マガジンが引っかかって脱落してしまうのではないかという印象です。
底上げや仕切りの追加など何か工夫をしていたのかもしれませんが、よくわかりません。



一方で最近のSAJ隊員達の画像を観察してみると、私が今回入手したのと同じポーチを備えたMP5用タクティカルベストを装備していることが分かります。

もっともこれらは一見してわかるとおり全て薄弱な根拠に基づく印象論に過ぎず、現時点ではこのタクティカルベストの正体は殆ど全くの不明であると言ってよいでしょう・・・

ユーゴスラヴィアの対テロ部隊装備に詳しい方・着装写真をお持ちの方がおりましたら、是非ともご教授頂きたいところです。

ともあれ、以前からインドアフィールドでのサバイバルゲーム用に欲しかったMP5用の装備をようやく手に入れることが出来ました。
暫くはMP5の電動ガンで無心に遊びたいと思います。

いずれ調べがつき次第ベストに合わせて服からヘルメット迄揃えたいところですが、とりあえずは通常のPJP装備に組み合わせて使用してみようかと。

すっきりしないオチ無しブログですが、今回はこのへんで。
  

Posted by セルビやん at 03:19Comments(0)内務省個人装備

2013年02月25日

スルプスカ共和国軍 装備例1



前回の更新から随分間が空いてしまいましたが、生きております。

日曜日、ブラジル軍装専門家フロレス同志にお願いしてお身内のサバゲに混ぜてもらってきました。

装備はボスニア内戦スルプスカ共和国軍装。

久しぶりにマジメに軍装した気がします。
枯葉の積もった野山にはスルプスカリザード迷彩がよく溶けてくれました。
M68ヘルメットカバーは一見目立つ単色ですが、この寒い2月にも広葉樹の潅木があちこちで鮮やかな緑色の葉っぱを広げており、私もこっそりその仲間に入れてもらえた・・・つもりです。

【装備品リスト】
M68ヘルメットカバー
M56スチールヘルメット
スルプスカリザード迷彩野戦服上下
レザーウェビング+SKS用M48アモパウチ+M57ピストルホルスター



M70マガジンポーチ



M77メディック用ラージバックパック+M68迷彩ツェルトバーン
ユーゴ軍レザーバックルブーツ



袖章はスルプスカ共和国軍のフラッグパッチです。
国旗である三色旗とセルビア語の国名があしらわれています。

装備こそ全部実物ですが、AKの電動ガンはテキトー(イノカツAKMS)です。
せめてハンドガードを木製に換装しないと、どうもユーゴ関連の軍装に使うには見栄えが悪すぎます。
ザスタヴァM70ハンドガードだけは売るほど持っているのですが、いかんせん不器用が祟って宝の持ち腐れに。
情けなや・・・




愛国歌「我らがスルプスカ共和国」

せめて気持ちだけはと行き帰りの車内ではスルプスカ共和国ほか
旧ユーゴスラヴィア連邦の軍歌や映画アンダーグラウンドのサウンドトラックを聴きまくっておりました。

次回は、2/10(日)にデザートストーム川越「相原みぃちゃん引退サバゲ会」に参加したときの装備例を御紹介します。
  

Posted by セルビやん at 22:41Comments(2)サバゲスルプスカ共和国

2012年07月29日

ボスニア領土防衛軍民兵



先週土曜、デザートストーム川越にて撮影。

1992年サライェヴォ防衛にあたったボスニア・ヘルツェゴヴィナ領土防衛軍民兵の軍装を再現してみた。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領土防衛軍は愛国者同盟などと並び、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国軍の前身となった組織のひとつである。
ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国では、ワルシャワ条約機構軍の侵略に備え、スウェーデンの山岳防衛構想を参考にした独自の全人民抵抗体制を整えていたが、内戦勃発時にはこれらのシステムが自国内の異民族相手に容赦なく牙を剥いたのであった。

トータル・ナショナル・ディフェンス-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9

ツァスタバ・フィルム製作のドラマ「兵士たち」


第4話-「黒と青」は領土防衛軍と人民軍との対抗演習を描いたエピソードだ。
70年代には既にクロアチア系を中心とした大規模な暴動が発生していたとはいえ、このドラマを製作したスタッフ達もまさか数年後には本当に自国民同士の殺し合いが始まるとは思ってもみなかったことだろう。
9:11の作戦会議シーンでは、今回私が着用したのと同じ領土防衛軍の青い野戦服を見ることが出来る。



ベレーはユーゴスラヴィア製で樹脂製帽章は入手時からついていたオリジナル。
ブルーの領土防衛軍ジャケットは撥水加工で、猛暑の中着用するのは少々苦痛だった。
左袖に元々ついていたユーゴスラヴィア領土防衛軍部隊章を剥がして、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領土防衛軍の部隊章に付け替えたもの。
革製の弾帯・バックルブーツ・ツァスタバM56短機関銃用ポーチ・ツァスタバM57用ピストルホルスターは全てユーゴスラヴィア人民軍実物。



サングラスは湾岸戦争時英軍のものなので、単なる目線隠しと思って頂きたい。



参考にしたオスプレイ メンアットアームズ掲載のイラストでは武装が中折れ式二連銃身の散弾銃だったが、この日はCYMA製MP5A2とクラシックアーミー製G3A3、それにツァスタバM57の代用としてトイスター製トカレフTT-33を使用した。
また袖章も同イラストのものとは異なるが、上記武装・徽章ともに組み合わせとしてはあっておかしくないものに仕上がったと思う。

領土防衛軍の装備としては他に部隊章つきの背嚢のみ所有、下衣や野戦帽など基本的なアイテムが不足しているが、これらを入手した暁には是非セルビア義勇親衛隊の軍装にも活用していきたいと考えている。



セルビア義勇親衛隊-通称「アルカンの虎」も一時期、領土防衛軍の装備を使用していたことがある。